ゆるゆると暖かい春の午後。思わず気が緩んでしまいそうな気候だというのに、この華胥国炎狼山州州庁監査室室長・高賀(こうが)の眉間にはくっきりとした皺が寄っていた。
それは仕事が滞っているわけでも、仕事上で何か問題が起きているわけでもない。二十七という若さで、この監査室の室長にまで抜擢されたほどの高賀の機嫌を損ねる原因など、ここ最近では一つしかなかった。
そう。ひとえに、目の前の部下のせいなのだ。
「……おい」
「はい」
高賀は口元をひきつらせながら、それでも聞いた。
「何をしている」
「室長の腹筋を触っています」
「アっホか!」
着物のあわせの中に手を入れて自分の腹に指を這わせ、撫でまわしている撫子の頭をすぱんとはたき、手を懐から追い出す。
「ああっ、なにするんですか!」
「それはこっちの台詞だ! なにをしているんだ、お前は!」
「室長の腹筋を触りたいだけですってばぁ!」
「やめろ、気持ち悪い!!」
どうやら彼女は、筋肉フェチというものらしい。
「まったく、お前という者は! 真面目に仕事をしていたかと思うと、断りもなく人の腹を触りおって! 何なのだ!!」
畳の上に撫子を正座させ、高賀は声高に彼女を怒鳴りつけていた。もはや日常茶飯事なので、誰も何が起こったのかとか、撫子を弁護してやろうかという者はいない。むしろみんな、高賀に同情的である。
「うう、そんなに怒らなくてもいいじゃないですか……。私こうやってお説教されるの、もう五十七回目なんですけど」
「自覚があるなら是正しろ」
一応、説教は堪えているらしい。それすらも堪えない、真正の変態だったら――今でも十分に変態だが――どうしようかと思った。
「無理です。室長がそんなにきれいな肉体をお持ちなので蠢く手指を抑えられません」
見ると、いつの間にやら撫子の手は顔の下まで持ちあがり、その十本の指をわきわきと体操のごとく動かしていた。見るからに怪しい。
「抑えろ! 触るなっ!」
のびてきた指をぱしりと叩き落とす。まったく、油断も隙もない。
「ああっ、素敵な筋肉様が! せめて、せめて上腕二頭筋だけでもっ」
「寄るな触るな仕事しろ――――――っ!!」
今日も監査室には高賀の叫び声が響き渡った。
「あーあ、今日も怒られちゃった」
「撫子、アンタも懲りないわねえ……」
仕事の終わった後、撫子は同僚の女性たちと行きつけの居酒屋に来ていた。この居酒屋は客席が個室になっているので、周囲に気兼ねすることなく、話すことができる。
「でも変わってるわよねえ。筋肉が好きだなんて」
「ん? あたし、別に本当に筋肉が好きなわけじゃないわよ? 好きな方ではあるけど」
「え?」
「ど、どういうこと?」
同僚たちの戸惑いの視線が撫子に集中する。
「んー、つまりそのー、室長に構って欲しい的な? 体を触ってたら異性として意識されるかも? っていうのもあるけど」
二人は唖然とした。つまり、彼女が毎日毎回上司の筋肉を触っているのは。
「……つまり、戦略?」
「そういうこと♪ だって室長ってお仕事人間で、女なんか眼中にないって顔してるんだもの」
ただの、恋する乙女の恋の戦略であったのだ。
「……じゃあアンタ、なんで筋肉筋肉言ってるのよ……」
「理由? そんなのもちろん」
撫子は心底楽しそうに笑ってみせた。
「そう言った方が面白いからよ」
悪びれる様子もなくうふふふふと笑う撫子に、その場の全員が呆れた視線を送ることしかできなかった。
「……室長」
「…………言うな話すな喋るな気づかれる」
「知り合い同士の恋愛話を盗み聞きするのって、なんだか申し訳ない気持ちにさせられますよねえ……」
壁一枚を隔てた個室で、よもや自分たちの会話を聞いている上司と同僚がいようとは、撫子たちは夢にも思わなかった。
彼女は筋肉フェチ!(偽)
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